オーストラリア経由、尼崎帰り!
“戻す改革”で創業80年に迫る
老舗旅館の魅力を引き出した
異色の女将の物語
阪神尼崎駅から神戸方面へ、普通列車に揺られること1駅。出屋敷駅は尼崎市内でも少し地味な印象かもしれません。そんな駅のほど近く、住宅街を分け入ったところでレトロな存在感を放つのが「竹家荘旅館」。戦後間もない開業当時は阪神工業地帯で働く人の定宿として繁盛し、近年はヨーロッパ圏を中心としたインバウンド客も訪れる老舗旅館です。
初代以来の思いと場の空気感を引き継ぎ、宿泊客を迎えるのは女将の樋口京子さん。いわゆる「女将」らしからぬ竹を割ったような人柄の3代目に、宿のこれまでと未来像を尋ねました。
オーストラリアでの20年間を経て老舗旅館を継ぐことに
軒先に波打つ瓦、型板ガラスのはまった観音開きのドア、さらには土間に敷き詰められた鮮やかな豆タイル――と、レトロ好きなら誰もがビビッと反応する要素が至るところに散りばめられた「竹家荘旅館」。1920年に建てられた日本建築は当初、下宿屋として使われていたそうです。
それを入手して旅館に生まれ変わらせたのが、樋口さんの祖母。時は1947年、太平洋戦争からの復興から高度経済成長期にかけて、阪神工業地帯や尼崎港に近い旅館は多くの工員や船員でにぎわいを見せたといいます。
そんな活況を目の当たりにして育ったのが樋口さん。「竹」を冠する宿のシンボルとして、館内を彩っていた竹に遊ぶすずめを描いた日本画が由来となり、祖母から「すずめのお松」と呼ばれてかわいがられていたそうです。
樋口さん 「祖母は11人きょうだいの長女で、とにかく商才に長けた人でした。というのも旅館の営業が安定したと見るや、私の両親に経営を任せて自分は料亭を開業させているんです。当時の女性としては珍しく、好きなものは好き、嫌いなものは嫌いという性格もよく覚えていますね。祖母のDNAを一番受け継いでいるのは私ちゃうかな(笑)」
そう語る通り、樋口さんのこれまでの生涯は波乱万丈。
短大卒業後はデザインの世界で働き、28歳のときに縁あって単身オーストラリアへ。飲食店やブティックで働きつつ現地で結婚・出産を経験し、その後は旅行やワーキングホリデーで現地にやってくる日本人向けのガイドとしても活躍しました。結局、オーストラリアにはトータルで20年ほど在住。長い海外経験は、図らずも旅館経営に欠かせない人を見る目を養っていたのです。
オーストラリアでの暮らしを続けながらも折を見て帰国し、父が引き継いだ旅館に顔を出していた樋口さん。1994年の秋にも途中帰国し、小学3年生になった息子とともに慣れ親しんだ尼崎に長期滞在していました。
そんなとき、予想だにしない出来事が竹家荘を襲います。そう、1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災です。
樋口さん 「もとはオーストラリアに住み続ける気でいたんですけど、竹家荘が倒壊とまではいかずとも被害を受けたのを見て、放っておけないって思ってね。宿に対する愛着を持つ自分がいることを再確認しました」
高齢を迎えた父からの連絡を受け、正式に帰国して竹家荘を引き継いだのは2003年のこと。祖母に似て「強制されることはいや」という樋口さんにとって、震災体験は生まれ育った場所を守る責任感を大きく刺激したに違いありません。
老舗ならではのエッセンスを時代にマッチしたものに
思いがけず家業に入って20年あまり、樋口さんは老舗旅館を「変える」のではなく「戻す」ことに徹してきました。ガラス戸、階段の手すりの意匠、豆タイルなど、現在では入手困難な建材はいまも現役。目を凝らして見てみても、よく手入れが行き届いていることが分かります。
樋口さん 「変えたといえば、13室あった客室のうち1室を共用キッチンにしたところ。でも、システムキッチンはなじまないので、宿の雰囲気に合わせてDIYしてね。それと訪日外国人客の増加を受けて、シングルの部屋にはベッドを置くことにしました。でも、本当にそれくらい。戸棚や椅子といった備品を入れるにしても、大正期の建物に合うものしか選ばないんです」
一連の「戻す改革」が功を奏してか、12室ある客室は週末ともなればすべて埋まることもしばしば。大阪、神戸のどちらにもアクセスのいい「穴場」として、国内外を問わず多くの宿泊客を集めることになりました。
地元出身の漫画家・尼子騒兵衛さんの代表作『落第忍者乱太郎』の登場人物に名前が似ていることから、ファンにとっての「聖地」としての性格を帯びるようにもなり、作家本人も竹家荘に足を運んでくれたといいます。
このように樋口さんの確たる意志が実を結び、順調かに思えた旅館経営でしたが、そこに影を落としたのが2020年の新型コロナウイルスの流行でした。フランス、ドイツ、イタリア、ベルギーと各国から竹家荘を訪ねていたインバウンド客は一気にゼロに。このままではいけないと思った樋口さんが始めたのが喫茶営業でした。その名も「喫茶リョカン」。旧知の大工からカウンター用の木材を取り寄せ、漆喰壁もきれいに塗り直して、玄関を入ってすぐのところにカフェスペースを設けたのです。
樋口さん 「やっぱり私も含めて、みんな誰かとしゃべりたかったんやろうね。宿泊とは無縁だったご近所さんが頻繁に顔を出してくれて。夫婦げんかをして頭を冷やしに来る、そんな人もいました。大きな儲けにはならんよ(笑)。でも、困難な状況にあっても人を集められたことで、自信を深めることができました」
コロナ禍もひと段落した現在、玄関と共用スペースの両方に開口部があることから「いままで以上に客同士の交流が盛んになった」という、うれしい副産物ももたらしてくれた喫茶リョカン。
古希を迎えたとは思えないほどに、まだまだバリバリと働けそうな樋口さんですが、継業を考え出した背景には「待つことが嫌い」という性分もあるのでしょう。新たな担い手に求めるのは「竹家荘という場所が好き」という率直な思いだといいます。
樋口さん 「スタッフもみんなここが好きで働いてくれています。古民家好き、建築好きという切り口もいいけれど、やっぱりその根底には竹家荘が好き、人が好きという気持ちがあってほしいな。シンプルに、本当にやりたい人がやるべき仕事なんだと思います」
祖母、父とバトンが託され、間もなく創業から80年を迎えようとしている竹家荘旅館。老舗にしか醸せない魅力を活かしつつ、どうやって現代のビジネスとして成り立たせていくか――
樋口さんが向き合ってきた課題をいっそう深く取り組む人の出現が待たれます。
#後世へ残したい企業
竹家荘旅館
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