昭和レトロな「型板ガラス」が持つ
可能性を広げたい。
「想定外」を楽しむガラス店3代目の横顔
昭和40年前後に生産の最盛期を迎えた「型板ガラス」。宇宙や植物を思わせるパターンに幾何学模様と、数十ものデザインで見る人を楽しませてきました。言葉そのものは知らなくとも、現物を前にすればピンと来る人は少なくないはずです。
そんなガラスを「昭和ガラス」として再解釈し、新たな魅力を吹き込むのは神戸の下町・長田で100年近く続くガラス店の3代目、古舘嘉一さん。型板ガラスの曲げ加工を独自に技術開発し、レトロな工業製品をお皿やランプシェードに生まれ変わらせたいきさつ、今後の可能性をうかがいました。
サラリーマン生活を経て感じた懐かしのガラスの魅力
「旭屋ガラス店」が産声を上げたのは昭和2年(1927)。創業100年に迫る押しも押されもせぬ老舗です。今でこそ、型板ガラスの加工で国内外を問わず注目を集める存在ですが、そのルーツはいわゆる「街のガラス屋さん」。「昭和レトロ」という言葉がもてはやされるようになったいまも、神戸近郊の住宅や公共施設などでガラス施工を担い「現役」を貫いています。
3代目の古舘(こやかた)嘉一さんは工業高校を卒業後、三菱電機の子会社に就職。絶縁材料の開発担当として充実した社会人生活を送っており、当時は家業を継ぐ気は全くなかったと語ります。
古舘さん「幼少期から身近にガラスがありましたが、まったく興味はなくて(笑)。就職先でも材料試験というやりがいある仕事を任され、何も不足はありませんでした。ただ、いつのころからか『このまま定年まで勤め上げるのが正解なのか』と自問するようになって。自分の一生を考えるなかで実家に商いの基礎があることを再認識し、脱サラしたんです」
古舘さんが旭屋ガラス店に入ったのは2002年のこと。阪神・淡路大震災からの復興バブルは落ち着き、経営は低迷期に入っていました。父の一夫さんは、周囲の同業者から「なんでこんな商売を継がせるんや」と言われる始末。 しかし、息子の胸には「いままでと同じやり方ではいけない」という確かな問題意識がありました。
もとよりデザインに関心を寄せていた古舘さんがまず思い至ったのが、ステンドグラスの技術習得。知人を介して職人に師事し、一般的なガラス店には無縁の工芸の世界に触れることを通して、ガラスという素材が持つ魅力に惹かれていったそうです。
2年におよぶ修行の末、古舘さんは摂津本山駅のステンドグラス装飾を任されるまでになりました。同時並行で父の現場にも出向き、サッシの取り付けや割れたガラスの交換といった「ガラス屋の仕事」も身につけていきました。
古舘さん「今になって思えばそれまではただの親父に過ぎなかった人が、ガラスの師匠だったんだなと感じています。父が捨てずに残しておいてくれた、今は生産されていない様々な模様の型板ガラスの端材。見てただ感心して驚くだけの気持ちから、この魅力的なガラスを何かの形で絶対使っていきたいと具体的な気持ちに変化していきました。」
生来の実験精神に火を灯して地道な技術開発に取り組み、型板ガラスの加熱による加工方法を考案した古舘さん。家業を継いだ当初からの付き合いのリノベーション案件を多く手がける設計士から、型板ガラスを使った皿やランプシェードの製作を依頼されるようになり、施主の思い出を託された創作活動を続けてきました。
自分ではない誰かとのタッグで新たな価値の創造へ
型板ガラスを切り出し、独特の模様を損なうことなく滑らかに曲げる――窓という本来の用途とは異なる目的を達成する試みは過去に例がなく、いわばあるものからないものを作る作業でした。それでも、古舘さんはどこ吹く風。電気窯を駆使して曲げ加工に最適な温度帯を探る過程では「わざと間違えてみる」ことさえありました。
古舘さん「失敗から蓄積されたデータは、素材のポテンシャルを示す証拠にもなる。サラリーマン時代の性分で、柄を溶かさずに曲げるまでに何度も試作を繰り返しました。もっとも、こうした実験ができたのも父が遺してくれたものがあってこそ。震災で割れてしまった端材まで『もったいない』と取っていたくらいですから(笑)」
ガラス店としての「本業」をこなしながら編み出した技法が大きく注目を集めたのは2020年のこと。「銀河」という柄を用いた皿がSNSで話題になり、レトロブームを追い風に全国から注文が殺到しました。
この時点で、型板ガラスのアップサイクルという発想を形にしてから15年あまり。自社の在庫のガラスだけでは供給が追いつかない状況でしたが、廃業したガラス店から「型板ガラスを引き取ってほしい」という想定外のオファーも舞い込みました。
古舘さん「まさかここまで反響があるとは思いませんでした。僕の人生自体がそうですけど、遠回りした方がうまくいくことは確かにあるんだなと」
現在は「実用性のあるものを」との思いから、製作品目を皿とランプシェードにしぼり込む古舘さん。一方では自らの造語である「昭和ガラス」を旗印に、日本の風土や文化に裏打ちされた独自の工業デザインを広く知ってほしいとも願っています。
その熱意はインターネットやテレビ番組を通して海外にまで届いており、アメリカ、オーストラリア、台湾から工房を訪ねる人もいたといいます。
決まった後継者がいないとはいえ、50代半ばという年齢は事業承継を考えるにはまだ少し早いといえるでしょう。古舘さん自身もまだまだ現役の「ガラス屋」として働く構えです。
とはいえ、事業が順調に大きくなるにつれて、古舘さん一人で製作から販売まで全ての業務へ対応することに限界も感じ始めました。
古舘さん「目先の利益はともかく、自分の力だけではできない仕事がしたいなと。それはたとえばアクセサリーでもいいし、アートでもいいし、あるいはブランディングという形でもいい。柄や形の組み合わせだけでも無数のパターンがあるだけに、新たなアイデアが加わればさらに可能性は広がると思います。互いの価値観を尊重しながら、昭和ガラスの魅力を掘り下げられるパートナーを見つけたいですね。」
安定したサラリーマン生活に別れを告げ、型板ガラスの魅力に取りつかれたことで、それまで想像していなかった人生を歩む古舘さんが「想定外」の展開をともに楽しめる相手を探したいと考えるのは、ごくごく自然な流れといえるでしょう。
誰かと手を携えることでしか生まれない価値を創造するのが夢だと語る古舘さん。 共に事業を広げながら、今後を託していける方を探しています。
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旭屋ガラス店
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